ヘルペインター
HELLPAINTER
HELLPAINTER ロングインタビュー
第1回 ヘルペインターとは
第2回 ヘルペインター代表・高橋ミキヤと宇宙船第14号
第3回 高橋さんの造形の話と、塗りのこだわりの話
第4回 八木さんの地獄魔人
第5回 筋金入りの男、八木さん
第6回 米山さんの初期衝動
第7回 努力の天才、米山啓介
第8回 ASTAROTHの制作について
第9回 ヘルペインターのアイデンティティと今後の展開
PROFILE
[リンク/HELLPAINTER.com]
塗り師・造形師である高橋ミキヤを代表として、造形師・八木一晃、造形師・脩壱、造形師・米山啓介の4名からなる、クリーチャー系に特化したガレージキット制作工房。
少年期よりガレージキット制作に打ち込んでいた高橋ミキヤが、1999年に完成品制作工房を開業。広告代理店勤めの傍ら、副業としてスタートさせた当時の屋号は「リューサイン」であった。
その後独立を決心、それにあたって「リューサイン」の雑誌広告に使用していたフレーズをヒントに工房の名称を変更。「自分が地獄に感じるくらいの塗り込みをしてやろう。それを売りにするのだ」と心に決めた高橋によるそのフレーズとは、「地獄の塗り込み」であった。こうしてガレージキット完成品制作工房「ヘルペインター」が誕生する。
単独で工房を運営すること5年目にして、高橋は自らの造型作品を委託販売していたガレージキット専門店で八木一晃と出会う。八木はそこの常連客であり、小学生の時分よりガレージキット専門店に通う筋金入りであった。二人は意気投合し、八木はそれまで雑誌広告のみだったヘルペインターのホームページ制作を買って出る。パソコンの苦手な高橋は「そのお返しに」と、共通の好みであった「ゾンビ」の造形制作を開始。それを受けた八木はなんと単身アメリカへ飛び、「ゾンビ」(1978年)劇中で頭を鉈で割られるゾンビを演じたレナード・ライズにコンタクトを取る。こうして二人がタッグを組んだ初のキット、「マチェット・ゾンビ」【画像】が正規の版権を得て世に出ることとなった。以後数々のオリジナルキットが作られていくようになる。<高橋の作品-「ANABEL」【画像】「仁王 吽形」【画像】>
こうしてヘルペインターのメンバーとなった八木は、工房のマネジメントもこなしつつ、高橋の影響により造形活動をスタート。たちまち眠っていた才能を開花させ、本人曰く「幼少時よりホラー映画で膨らませていた妄想」を原動力に、「甲臥鉈」【画像】や「ナイアーラトテップ」【画像】といった作品を次々と発表。高い評価を獲得する。
さらに当時、ゲーム「サイレントヒル」のクリーチャーを制作していた八木は、同じく「サイレントヒル」のハイレベルな作品を制作していた造形師・脩壱と知り合う。活動を共にすることになり、修壱もヘルペインターの一員として合流。息をのむような超絶造形に高橋の狂気じみた塗り込みが施され、クリーチャーファンの話題をさらうこととなった。<修壱の作品-「ARASTOR」【画像】、「WALL」【画像】>
それから程なくして、中学時代より独自に造形活動を始め、高校生の時点で既に素人離れした「プレデター」【画像】を制作しモデルコンテストに入賞するなど、その年齢からは考えられないような実力を持った美大生・米山啓介を八木が発見。米山による初のキット「神官オーマ」【画像1】【画像2】を見た高橋は驚喜し、高橋曰く「さらうような気持ちで」加入を頼み込む。こうして2008年、当時若干二十歳前後の米山が参加。現在のヘルペインターのメンバーが揃うこととなった。
Sci-Fiやクリーチャーにこだわり、それ以外には見向きもしない。あくまでも足枷のない、自由でアバンギャルドに制作できる環境を追求する。そうでありつつもあくまでストイックな高橋は、「大変だ、きついなと思わないような仕事をするようになったら終わりです」と、身を削って制作に打ち込む。メンバーそれぞれが矜持を持ち、精神的・肉体的に追い詰められるような状況になっても制作をやめることはない。クリーチャー、造形は彼らの血肉であり、それ無しでは生きていくことができないらしい。
イベントではどのキットも即完売となるほどの人気ディーラーであるヘルペインター。しかし本人たちにメジャーへの志向はない。「今後の展望は?」と尋ねると、「このメンバーで、できる限り長く続けること」と答える。
外部と組む企画は、今回のAACが初となるのだそうだ。
「この辺で一度、より多くの人に米山の作品を見て欲しい」という思いで参加の依頼を受け入れたという高橋。
ぜひ彼らのホームページを訪問し、作品群をご覧いただきたい。良い意味での、「手遅れな人たちの生き様」を感じることができるはずだ。
■関連リンク
【HELLPAINTER 公式HP】
(テキスト/ 原田プリスキン)
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